INTRODUCTION

歳を取ると、身体のあちらこちらに不具合が出てくる。膝の痛みもその一つ、とはいえ歩けないほどひどくはない。
ただ動くたびに痛みを感じていてはストレスがかかり、放置しておくといずれ歩行に支障をきたす。
その原因の一つが半月板損傷、膝関節の中にある半月板に亀裂や欠けが生じて動くたびに痛むようになる。

 
治療法は縫合もしくは切除しかなく、いずれも根本的な治療法とはいえない。
そこで、可能な限り膝を温存して半月板損傷を治療する。
そんな革新的な治療法開発に取り組んでいるのが、整形外科学教室の大槻周平講師だ。
 
産学連携による生体吸収材料を使った研究は、まもなく第2ステージの治験に入ろうとしている。

高齢日本に忍び寄る危機

人の体には、約260個もの関節がある。
骨と骨をつないで体を動かすのが関節の役目で、中でも日々歩くときなどに負荷がかかるため、痛めやすいのが膝関節だ。長年使っているうちに、
関節内の軟骨や半月板を損傷して発症するのが変形性関節症、日本では通院している患者数だけで約800万人いるとされる。

「ただし病院に行くほどではないと思いながらも、実際には膝に痛みを抱えている潜在患者を合わせると、2000万人を超えるという調査結果もあるほどです。超高齢社会に突入した日本で、現状を放置しておくと大変な事態になりかねません」と、大槻講師は自らの問題意識を語る。

大槻 周平 講師
大槻 周平 講師

そもそも日本人はO脚が多いために膝を傷めやすい。歳をとると足の筋力が低下しがちで関節にかかる負荷も強まり、また半月板の成分であるコラーゲンが変性して弾力性を失ってくる。
ただし、半月板そのものには神経が通っていないため、痛みを感じるのは周辺部、だから半月板の不調を疑う人は少ない。
膝の痛みが強まって病院に行き、MRI撮影を行って初めて見つかるケースが多い。

「半月板損傷の治療法として日本で行われているのは、縫合術もしくは部分切除です。患者さんが若く軽症の場合は、基本的に縫合により良好な経過を得られます。
一方で40歳以上の方や断裂などを伴っていると、半月板切除しか今のところ手の打ちようがありません。ところが半月板切除を行うと変形性膝関節症の再発リスクが一気に高まるのです」

歩くのが不自由になれば、日常生活にも支障が出るだろう。これから高齢者の増加が見込まれる日本において、医療費や介護費の増大は社会全体に影響を与える。

未だ見つからない理想の治療法

実は大槻講師が臨床に携わりだした20年ほど前は、縫合術さえ認められていなかったという。

「整形外科の教科書には、半月板には神経が通っていないから傷んだら除去すればいいと書かれていました。これがかつての常識だったのです。
けれども、医学の世界は日進月歩であり、今では新たな術式が3つ開発されつつあります」

主に欧米で取り組まれているのが、傷んだ半月板に別の半月板を移植する術式である。
一つは同種半月板移植であり、亡くなった方から正常な半月板を採取してサイズの合う人に移植する。
ただこの術式は、心情的に日本人には受け入れにくく、今のところ認められてもいない。
そこで検討されているのが、人工の半月板を移植するやり方である。

「人工の半月板については、10年ぐらい前から主にイスラエルで研究が進められています。
初期のものは負荷に耐えきれず破損するケースが多かったようです。その後改良が進められていて、いずれは日本でも採用される可能性は考えられます。もう一つが、最終的には人体の組織に置き換わる半月板スキャフォールドを使うやり方です」

日本語で「足場」を意味するスキャフォールド(scaffold)とは、細胞接着や増殖の足場として機能する材料である。
欧米では既に、2種類のスキャフォールド開発が行われている。

現在開発に取り組まれているのは、ウシのアキレス腱に含まれるコラーゲンを使うものと、ポリウレタン素材のものがある。
ただコラーゲンは水に強くなく、関節鏡による手術時の扱いが難しい。
一方のポリウレタンは人工物であるため体内に残り、半月板を挟み込んでいる軟骨を傷つける場合がある。

「⾼齢者の⽅のQOL(Quality of Life:生活の質)を維持するためにも、膝の問題をなんとしても解決したい。そんなときに思いついたアイデアが、単に足場としてだけ機能するのではなく、人体の組織にまるごと置き換わるようなスキャフォールドの開発でした。
とはいえそもそも半月板には血管がほとんどなく血が通っていないのだから、そこで細胞が成長するはずもなく、いささか常識はずれともいえる発想でしたが」

イノベーションは常識を超えた先に生まれる

人体組織に置き換わるスキャフォールドとして、まず大槻講師は人工真皮に目をつけた。
やけどで欠損した皮膚に当てると、やがては皮膚内に吸収される素材だ。

この素材を有するメーカーのグンゼと共同研究を進めたものの、これもコラーゲン素材なので半月板では扱いが難しい。

「既に臨床で使われている素材で、水に強く力学的な強度も担保しているものはないのか。そう考えてたどり着いたのが人工硬膜でした」

「半月板再生基材」外観
「半月板再生基材」外観

グンゼの⼈⼯硬膜はポリグリコール酸(PGA)などからつくられていて、脳出⾎の治療などに使われるなど安全性は担保されている。
そのPGAを主な材料とした新たな素材開発をグンゼに依頼し、データの評価とコントロールをベンチャー企業に任せる体制を整えて開発を進めた。

新たな素材開発をグンゼに依頼し、データの評価とコントロールをベンチャー企業に任せる体制を整えて開発を進めた。

この段階でAMED(国立研究開発法人日本医療研究開発機構)に申請を行った結果、2016年に「医工連携事業」として採択され1億を超える予算を得た。これで研究にはずみがつく。

「AMEDの評価ポイントは、将来的に人工関節を必要とする患者さんを減らせれば、医療コスト削減につながる点でした」
と、大槻講師はAMEDからの期待を語る。

⼤型動物による非臨床試験が始められ、成果は早くも8週間後に出た。スキャフォールドの状況を経過観察すると、その内部に動物の細胞が大量に入り込むと同時に、スキャフォールドそのものが自己組織に置き換わり始めている様子も明らかになった。

さらに自己細胞に置き換わったスキャフォールド内部には血管が形成され、細胞成長に必要な栄養が補給されている状況も明らかになった。
術後48週を経た段階で力学的な強度テストを行うと、正常な半月板と同レベルの強度を獲得できていた。

移植手術の風景
移植手術の風景

スキャフォールド使用に際しては、アレルギーや炎症反応、その他の副作用などの懸念もある。

これについても、⼤型動物による非臨床試験では、問題となるような反応はいずれもみられなかった。この成果を受けて2021年から開始されたのが、ヒトを対象とした探索的治験だ。

待ち望んでいる人のため
1日も無駄にはできない

半月板スキャフォールド移植後の写真
半月板スキャフォールド移植後の写真

探索的治験は、30代から50代までの、男女6人を対象に行われた。

全員が仕事に復帰し、これまでのところ合併症などに悩まされることもなく、そろって手術前の可動域を回復している。

中には週2~3回、1時間ほどのランニングを楽しんでいる人もいる。

「現在はPMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)と次のステップについて話を進めているところです。
半⽉板に関するスキャフォールド使⽤については、国内初の案件となるのでPMDA(独⽴⾏政法⼈医薬品医療機器総合機構)と意見交換を行いながら、慎重に進めているところです。」

実は治験が始まり、患者さんの経過をみていく過程では、大槻講師自らも不安に苛まれたと明かす。

「万が一、患者さんに何か不具合でも起きてしまったら、どうすればよいのか。そんなことを考え出すと、正直眠れない日々もありました」

そんな大槻講師を支えるのが、膝の痛みに悩まされている患者さんからの声だ。
治験に関するマスコミ報道などを見て、研究の進捗を細かく見守ってくれている患者さんがいる。

「そんな方が、予定より1年ほど遅れているんじゃないかと叱咤激励してくださるのです。どれほど多くの方が、私の研究成果を待ち望んでおられるのか。そう思えば1日たりとも無駄にはできないと、毎日気を引き締めています」

次のステップとして、今後は規模を大きくした検証的治験へと進めていく計画である。
その主な評価項目は、治療効果だ。
この治験で評価が定まれば、最大で日本人の5人に1人が苦しめられている、膝の痛み問題の解消につながる可能性が高い。

「拙速は戒めながらも、できる限り早く患者さんに届けたい。国内への提供だけでなく海外への展開も視野に入れています。
世界まで含めれば、数億人単位で膝に悩みを抱える患者さんたちを救える可能性がありますから」

半月板治療に新しい常識が、まもなく生まれようとしている。

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