教室の歴史

T.大阪医科大学外科学教室史の概要

外科学教室は創立以来、第二次世界大戦後までの約20年間は整形外科と麻酔科を含み、戦後に整形外科を分離し、ついで胸部外科(初代麻田教授、後に神戸大教授)の新設、麻酔科(兵頭助教授のちに教授)の独立をみた。昭和29年には従来の外科と胸部外科の2教室となったが、その名称を従来の外科はA、胸部外科はB外科の呼称とし、昭和39年以後は夫々第1外科、第2外科と呼ぶことになった。

昭和51年4月、外科が再編成され、創立以来の長い歴史をもつ従来の外科を一般・消化器外科となし、更に脳神経外科を加えて三教室とした。

このように外科学の専門的分科の発展的分離に適応して、本学の教室名も変更された。

U.第2外科学教室

昭和29年10月、胸部外科学担当教室の開設に伴い、麻田栄(京都帝大卒、青柳門下、講師)が教授、板谷博之(京都帝大卒、青柳門下、助手)が講師(後に教授)に就任し、胸部外科と一般外科を担当した。次いで武内敦郎(京大卒)助手、中村和夫(京大卒、後に講師)助手が就任したが、初期は従来の外科から数名のローテーションによる協力を得、昭和30年に入江義明(学2)助手が入室して、10年後の教室員は50名をこえるに至った。

新設講座には国産の簡単な全身麻酔器が1台で、静脈点滴輸液セットも新しくつくるなど、開拓期の幾多の苦難を経て教室の基礎が固められた。当時は初めて気管内挿管によるエーテル麻酔法が肺結核に対する肺切除に、また一般消化器外科にも全身麻酔が導入され、大がかりな外科的手術が可能となり、症例数が増加した。

教室の研究のテーマは極めて幅広く、麻田を中心に心臓外科、特に冠不全の外科的療法の開発をめざして中村、武内が動物実験を中心に研究を重ね、板谷の指導下に門脈外科の研究が行われ昭和35年頃から木原卓三郎教授門下の北出文男(専21)講師の参加で、胃癌の進展に関する組織学的研究など、多方面の学会に発表した。

昭和41年に麻田は神戸大学の教授、中村は助教授として転出し、1年間教授不在のまま板谷助教授、武内講師が協力して教室を維持し、翌昭和42年夫々が教授に就任して1講座2教授制となり、夫々一般・消化器外科と一般・胸部外科を分担し、各1講座分の研究費で再出発した。武内は昭和35年から昭和36年の間、東京女子医科大学附属日本心臓血圧研究所(榊原仟教授)に出向、さらに昭和38年から1年間フルブライト給費生として米国クリーブランドのDr. E.B. Kayのもとへ留学し、内外の心臓外科手術の最新を携えての教授就任となった。スタッフは昭和42年に学8期生の佐々木進次郎、昭和43年に同期の野沢真澄、桝岡進が講師となった。

昭和44年1月学園紛争が始まり、診療の縮小は勿論特に心臓手術は安全を期して延期、研究面にまで打撃が及んだが、紛争鎮静後直ちに教室員一同夫々両教授の下に結束して研究、診療に努めた結果、その水準も向上、教室員も年々著しく増加した。研究面では板谷は末梢動脈の病変とその外科的療法、胃癌に対する外科的療法と抗癌剤による化学療法、門脈圧亢進症、臓器移植などに関する研究。武内は弁膜疾患の外科的療法、体外循環時の電解質の変動、ペースメーカー療法の血行動態などに関する研究が進められた。

昭和49年、新しい外科病棟(旧5号館)開設にあたり、板谷担当の消化器・血管外科を中心とした患者は旧54病棟に、武内担当の心臓および肺・消化器外科系は旧53病棟に分けられ、将来外科教室を機能別・疾患別に再編成されるにあたっての基礎ができあがった。

V.外科専門分野の再編成

昭和49年夏第1外科の後任教授選考にあたり、外科の統合再編成が課題となり、第1外科に太田教授を迎えて1年有余、板谷を中心に各外科の代表が相寄り、在籍中の教室員の問題も併せて、本学外科学の将来の発展に最も好ましい型の再編成を目指して討議され、昭和51年4月これまでの第1、第2外科の区別を廃して、これを脳神経、胸部(心臓外科を含む)、一般・消化器の三外科に分け、夫々を太田・武内・板谷三教授が分担することに決定、教室員は各々が希望する領域の部に所属しても、各専門化のゆきすぎの弊を避けるため、各卒後外科教室のカリキュラムを設定し、研修期間中に義務的ローテーションを実施、別に学外にも外科教室の教育と診療の関連病院を求め、その研修もローテーションの申し合わせを行い、昭和51年秋から実施することとなった。

W.胸部外科学教室

前述の如く外科学教室史中で特記すべき再編成が昭和51年4月にあり、旧第2外科武内教授以下24名が胸部外科と改称され、外来は旧第2外科診察室、病棟は旧53病棟、研究室も従前通りで、武内の担当分野は心臓・血管・肺・縦隔胸壁等で、食道疾患は消化器外科が担当、乳腺疾患は将来内分泌外科が独立することを願って、一般外科の担当とした。かくして当時1年間の心臓手術件数は142、肺は62に達し、これら診療成績の向上は著しく、心臓血管や冠動脈選択造影法・気管支動脈選択的抗癌剤注入法や気管支ファイバースコープによる細胞診等は、心臓、肺疾患の早期確定診断と重症度の判定などの精度を高めるとともに、手術成績の改善にも大きく寄与した。

平成6年武内敦郎教授の定年退官に伴い、胸部外科学教室の第二代教授に胸部外科学教室の佐々木進次郎助教授(学8)が昇任、抜擢された。佐々木は昭和35年に第2外科教室に入局後、昭和46年から2年間米国ロスアンゼルスの南カリフォルニア大学にてJ.H. Kay教授の下で冠動脈バイパス術、心臓弁形成術の研鑽を積んだ。帰国後本学で第一例目となる冠動脈バイパス術に成功した。

佐々木の教授職在任中には心筋保護法の進歩と相まって、心臓手術の適応疾患、手術手技は増多し、我が国の心臓手術の成績は安定期に向かって飛躍的に進歩した時期であった。

この時期に、胸部外科学教室は心臓弁膜症、虚血性心疾患、大動脈疾患、不整脈、肺悪性腫瘍を中心とした呼吸器疾患の5領域に幹部指導者を抜擢し、各々が高度な専門性を発揮して診療にあたる“診療科長制度”の原型を敷設した。

平成15年3月に佐々木は定年退官した。その後、1年間の教授不在の時期を経て、平成16年4月、勝間田敬弘(金沢大学卒)が胸部外科学教室第三代教授として着任した。

勝間田は、昭和63年に大学卒業後、東京女子医科大学附属日本心臓血圧研究所(心研)で先天性(今井康晴教授、黒澤博身助教授)・後天性心疾患(小柳仁教授、遠藤真弘教授)および大動脈疾患(橋本明政教授)の外科手術の研鑽を積んだ。平成8年2月から平成12年2月にかけて英国オックスフォードのジョン・ラドクリフ病院附属オックスフォード心臓病センターのMr. Stephen Westaby(のちに教授)の下に留学し、同種弁・異種ステントレス生体弁、超低体温大動脈外科手術、補助人工心臓などの臨床、研究に従事し、平成12年4月から平成16年3月の間、前任地となる社会福祉法人京都社会事業財団京都桂病院心臓血管センターの外科部長の任にあった。

勝間田の教授就任の前年は、教室責任者の不在もあり、教室の手術件数は減少したが、近藤敬一郎診療准教授(学23、心臓血管外科)と川上万平講師(学29、呼吸器外科)の暫定的指導下に、心臓血管外科手術105例、不整脈手術93例、呼吸器外科手術63例(合計261例/年)の状態で、概ねの臨床機能は維持された。

教室責任者の着任後は、手術件数は飛躍的に増加した。勝間田が専門とする成人心臓血管外科の手術件数と対象疾患は順調に増多・拡大されていった一方で、小児心臓血管外科手術と呼吸器外科手術に応需しきれていない課題が残された。これに対処すべく、平成18年4月に天理よろず相談所病院より小児心臓血管外科を専門とする根本慎太郎(新潟大学卒)を、平成19年4月に鹿児島大学より呼吸器外科を専門とする花岡伸治(金沢大学卒)が招聘され、夫々の専門領域における手術件数は飛躍的に増大した。

根本は平成26年に小児心臓血管外科担当の専門教授に、花岡は令和2年に呼吸器外科担当の特務教授に就任した。いずれも、胸部外科学教室所属として初の領域別教授職であった。近藤は平成21年に教室出身者としては初となる大学教学部門の教育センター専門教授に抜擢され、平成25年に定年退官を迎えた。