酵素反応が酵素一基質複合体を形成して進行することはよく知られた事実であるが,この過程における
A) 反応中間体
B) 反応中間体聞に存在する活性錯合体
について
1) 構造
2) エネルギー準位
3) 種々の条件(温度,圧力,誘電率,イオン強度, pH ,酵素・基質・相互作用する物質の濃度,構造)の変化における 1) 2)
を理解することにより,触媒反応機構についてのみならず生体中での酵素の機能や代謝の動的な様相についての深い洞察が得られる,
1) を決定するためには X 線結晶解析を合めた分光学的解析が威力を発揮する.一つの構造が解かれたあと,3) の条件の変動が研究される.一方,反応速度論的解析は 2) の決定を目標としていると言えるが,分光学的解析とは逆に 3) の条件変動を方法論的基礎としている.すなわち,まず対象とする酵素反応の反応スキームを作る.そしてその模式に基いて速度式が導かれる.通常の速度式の中には基質濃度(時には酵素濃度や相互作用する物質の濃度)が変数として合まれる.これを変化させて反応速度(定常状態)や時定数(遷移相)を測定し,その速度式に合致するか否かを調べる.合致していなければ,その模式は棄却され,別の様式が同様の手順で検証されることになる.合致する場合はその“仮定した様式”が正しい可能性があることが示されたのであるが,その模式以外に“真の模式”があることを否定することはできない.
そのような“真の模式”には,
a) 「仮定した模式」を極限の場合として合むもの
b) 速度式が見かけ上一致しているだけで「仮定した模式」とは相容れないもの
の 2 通りがある.a) であれば,反応機構の議論において基本的な誤りを犯す可能性は低く,今後の測定・解析技術の向上により,より精密な反応機構を提出することができる.ところが, b) の場合は反応機構の根幹
に関わることであるので,注意しなければならない.このため,濃度以外の 3) の因子の変動出が反応速度
や時定数に及ぼす影響を調ベ,それが「仮定した様式」で合理的に説明できるかどうかが重要な判定材料となる.この段階になると,反応速度論的解析においても 1) すなわち「構造」の問題が重要になって来る.それは,濃度以外の 3) の因子はあらわな形では速度式の中に登場しないため,それらの速度式のパラメータへの影響は,中間体や活性錯合体の「構造」の安定化・不安定化として考察されなければならないからである.
特に選移相の速度論では(酵素一基質複合体の)反応中間体の濃度変化を観測量としているため,反応中間体の分光学的解析と密接な関係がある.遷移相の時間規模で測定可能な分光学的測定であれば,各中間体ごとの分光学的特性を知ることができ,静的な分光学的測定では得られない,反応中間体についての精密な情報が得られることになる.蛋白質構造研究の種々の方法論の発展はそのまま酵素反応速度論的解析,とりわけ遷移相の速度論的解析に反映され,速度論的解析と分光学的解析は車の両輪の如く酵素反応機構の解 明に重要な役割を果たしている.
上に述ベたように,遷移相の速度論では複数の反応中間体を区別して測定する必要がある.ところが,補酵素を合む酵素など反応中間体が特徴的なスベクトルを示す場合を除き,一般の酵素では各反応中間体が必ずしも特徴的な分光学的特性を示すとは限らない.このような例については,指示薬の使用やプローブの導入などの工夫がなされたり,反応中間体を単離できる場合は迅速停止法を用いた測定が試みられたりするが,基質(生成物)濃度変化を観測量とする定常状態の速度論に比ベて測定方法上の制約があるのは否めない.それでも,遷移相の速度論は,定常状態の速度論では決めることの難しい各素過程(反応中間体聞の相互転換)の速度定数を直接的に決めることができる可能性があるという点で反応機構研究上不可欠の方法である.一方,定常状態の速度論は得られる情報が間接的であるという大きな欠点があるが,測定方法に事実上制約がなく,また必要とする酵素濃度が少なくて済む(10−9 – 10−7 M:逓移相速度論ではこの 103 は必要である)という利点がある.さらに,前定常状態の場合など遷移相の速度論のみではパラメータの完全な決定が不可能な場合,定常状態の速度論との組み合わせが必要となる.このように反応速度論的解析において定常状態の速度論と遷移相の速度論は互いに相補的な役割を担っている.