“モル モーラー” で検索するとこの頁が上位に来るので,おそらくその違いが知りたくて訪れてくださる方々にとっては,下の文章はいささか散文的に過ぎよう.辞書風に簡単にまとめておく.
モル【英 mole】(名)物質量の SI 単位.記号 mol.
モーラー【英 molar】一(形)モルの.一モル当りの.二(名)モル濃度の慣用的な単位名称.mol/dm3 を慣用的に M で表し,通常モーラーと発音する.(英語でモル濃度 molar concentration を略して molar と呼び,転じてモル濃度の単位名称として定着したもの.M は SI 単位ではないので使用するときには M = mol/dm3 と定義しなければならない.なお,dm3 は非 SI 単位の L と同じである.) 注 M をモルと発音することもある.また,投稿規程で定まっているのであればその雑誌の中で定義なしに M を使用することができる.
高校まではモル濃度の単位は mol/L と教える.大学に入るとこれは,正式ではないが,分野によっては M という記号で表される.大変便利なのですっかりこれに慣れてしまう.ところが,これを何と読むのかが問題である.
“モーラー” と発音する人もいれば “モル” と言う人もいる.“モーラー” 派の人が “モル” 派の人と話をしていると何か話が噛み合わない.“モル” では物質量のはずである.しかしどうも前後関係からすると濃度を言っているようで,mol/L(mol/dm3 のことと全く同じであるが,彼らの頭の中では概ね mol/L である)と解釈すると話が合いそうである.それで “モーラー” 派の人間はいらいらしながら “濃度か絶対量か?” と質問し,濃度とわかったら,“モーラーと発音するように” と “教育的指導” をするわけである.“モル” 派の多くは “そう言えばそうだ” と思い,暫くのあいだ意識して “モーラー” と発音するが,そのうち面倒になって “モル” に戻ってしまう.確かに “モーラー” は日本語としては語呂が悪い.かくして “モル” 派はなかなか消滅しないのである.
“モーラー” 派の人は “M をモルと発音するのは間違っている” と言う.その理由は当然のことながら “mol と mol/L は違う” ということである.なぜそんな簡単なことがわからないのかという苛立ちが感じられる.しかしながら,意外と知られていない事実がある.
丸善 “標準化学用語辞典” 第二版(2005 年)の “モル” の項目に “モル濃度の単位” という記述がある.すなわち,日本化学会がモル濃度の単位を “モル” と呼ぶとしているのである.“モーラー” と呼ぶという記述がない以上,これが正式の呼称ということになってしまう.
なぜこのようなことになったのだろうか.
文部省学術用語集では形容詞の molar を “モル” と訳すことになっている.
(和) モル
(ローマ字) moru…
(カナ) モル…
(英語) molar…
(品詞コード) adj.
ここで… はあとに語が続くことを示している.M は一般に英語では molar と読む.そこでそれに機械的に対応して M を日本語で “モル” と読むようにしたと思われる.英語では名詞 mole と形容詞 molar が違うので混同せず,日本語では同じモルになってしまうので混乱するのであるが,英語の日本語訳として間違っているとは言い難いのである.
molar concentration を molar と略するいい加減さが英語では混乱を回避できたものの日本語で混乱を招いたと言えるのであるが,この問題の源をたどって行くと,モル濃度 molar concentration という用語が持つ問題に突き当たる.
まず,“モル濃度 molar concentration” という言葉には濃度を定義する際の分母についての情報が欠落している.分母となるのが溶液なのか溶媒なのか,またその規模を体積,質量,物質量のどれで表すのか,さまざまな可能性が考えられるにもかかわらず,その特定のものに対してモル濃度 molar concentration という名称を与えている.これは命名のしかたとしては失敗である.
次に,“溶質の物質量とそれが存在する溶液の体積の比” で表した濃度というのであれば,正にその通りに定義すればよいのに,溶液 1 L 当たりに溶けている溶質の物質量を mol で表したもの,と物質量と体積の単位を指定している.おまけに “モル濃度” と濃度の名称に特定の単位の名称が入っている.例えば圧力で “1 m2 当たりに働く力を N で表したものをニュートン圧力と呼ぶ” と聞くと明らかに奇妙であると感じるであろう.“モル濃度” はそう言っているようなものなのである.物理量は単位のとり方に無関係でなければならず,圧力は “力とそれが働く面積の比” と定義されるように,物理量の定義や名称に単位が入ってはいけないのである.したがって,IUPAC が従っている JCGM 200:2012 に示されるとおり,このような濃度は “物質量濃度 amount-of-substance concentration” と呼び,“溶質の物質量とそれが存在する溶液の体積の比” と定義されるべきものである.そうなると,単位は mol/m3 であろうが mol/dm3 であろうが,mmol/cm3 であろうが SI に従った物質量と体積の単位である限り何でもよいと認めなければならない.
このように見てくると,“モル濃度 molar concentration” という言葉やその定義の抱える問題が浮き彫りになるだろう.この言葉は (1) 概念を正しく示す名称でない.(2) 物理量としての正しい定義になっていない.(3) 名称に特定の単位の名称を使っている.という問題があるのである.加えて,(4) SI 単位でない L を中心的に使用した概念である.ということも問題の一つになるであろう.
そうは言っても広く使われている “モル濃度” の定義や M を使うなとは言いにくい.それではどうすればよいか.正しく規範的な表現と M を使う人との意思疎通を両立させようと思ったら,単位として mol/dm3 を用い,SI 接頭辞を mol の前に付け,濃度の名称としては “物質量濃度” を使う,ということになるだろう.さらに,それぞれ “いわゆる M のこと” “いわゆるモル濃度のこと” と但し書きを付ければ,それらは正式のものではなく慣用のものである,ということを M を使用する人々に知らせる “教育的効果” があるだろう.
“モーラー” 派が “モル” 派を批判することには濃度と絶対量を区別させるという重要な意義がある.しかし, “モーラー” 派も上記のように “モーラー” がそんなに褒められたものではないことを認識しておく必要があるのである.
付記:
どうもモル mol が関わると単位の名称や概念が混乱するようである.これは物質量の単位がモル mol しかない(別の言い方をすれば,物質量の非 SI 単位がない)ために,単位であるのに物理量の名称のように思われて,そのように使われて来たことが理由であろう.物理量の名称としては “物質量” であるにもかかわらず,“モル数” という言葉が慣用的に多用されているのもそのためである.“molar” は “mole の” という意味と “1 mol あたりの” という二つの意味が使われてきた.前者は “物質量” で置き換わってきているが,後者は IUPAC でもそのままにされ,“モル質量” や “モル体積” という言葉はこれからも残りそうである.物理量の名称に特定の単位名称が出てくるのは現代的な物理量の概念に反するものであるから,IUPAC の取り決めは中途半端ということになるだろう.