大阪医科薬科大学学報 8号
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どうにも気持ちが沈んでいくのです。その時点で30代半ばになっていて、転身するなら今がギリギリのタイミングだと考えるようになりました。ちょうどその頃に、病態検査に必要な質量分析を学ぶために当時の大阪医科大学に通っていて、法医学の専門家である鈴木廣一・現名誉教授と出会ったのです。鈴木先生に「私は内科医で、病理解剖もあまり経験していません。こんな私でも法医学に取り組めるでしょうか」と、突撃訪問するような勢いでお話すると「いいよ」と受け容れてくださったのです。これが私にとって大きな転機となりました。― 法医学教室での第一印象はどのようなものでしたか。 初めてご遺体と対面したときには、正直なところとてつもないショックを受けました。亡くなられてから時間の経っているご遺体だけに、かなり傷んでいたのです。人間の体はタンパク質でできているため、時間とともにダメージがひどくなっていきます。後から聞いた話ですが、恩師をはじめとしてまわりにいる技術職の方々も揃って私のことを「どうせすぐに辞めるだろう」と思っていたそうです。とはいえ、私としても簡単に引くわけにはいきません。前の職場で引き止めていただいたにも関わらず飛び出してきた手前、挫けたりはできないのです。いわば背水の陣で臨んでいるからには、何としても一刻も早く一人前にならなくてはいけない。鈴木先生はそんな私の心の裡を見抜いておられたのでしょう。口癖のように「とにかく君は人一倍がんばらないといけないよ」と話されていました。先生の思いに応えるために私も「そんなんできひんやん」と毎日のように心のなかで叫びながらも、必死にがんばりました。おかげで一人前の鑑定医になるために通常なら7 〜 8年かかるところを、2年も経たずに1人ですべてを任せられるようになりました。そして自分なりに理解したのが、ご遺体に対する主治医にならなければならないという心構えの大切さです。死因については自分が全責任を持って診断を下すのだと、法医学者としての基本的な心構えを短期間で叩き込むために、鈴木先生は私に数多くのご遺体を任せてくださったのだと思います。お亡くなりになった方は、生きている患者さんと違って一期一会、後から様子を確かめたりはできませんから。― ときには裁判所へ出向くこともあると伺いました。法廷での意見陳述は、かなりの重責ではないでしょうか。 私たち法医学者の仕事は、捜査機関からの嘱託を受けて始まり、必ず鑑定書を提出します。その鑑定書について、弁護人から同意を得られない場合などは出廷を要請されます。弁護士はあくまでも被告の立場から物事を見ているので、鑑定書に対して不同意されるケースもあるのです。少しでも被告を有利に導きたい弁護士の立場を考えれば、それも致し方ないと受け止めています。だからといって法医学者が「検察有利に」などと考えることは一切ありません。私たちは、あくまでも学問的に中立の立場からの意見を述べるだけです。弁護士に対しても何一つ隠したりはしないのが私たちのスタンスであり、その求めに対しては可能な限り応じるよう心がけています。― 今後の展望や課題について教えてください。 大阪府警から依頼で増えているのが、毒物・薬物関係の案件です。こうした案件を依頼される理由は、それに対応できる体制が本学には整えられているからです。キーマンとして大阪の科学捜査研究所で総括まで務めて定年退職された方を、毒薬物分析強化のために准教授としてお招きしました。昨今は合成麻薬など内容のよくわからない薬物も多く出回っています。これらの薬物は機序が不明とはいえ、多くの人に死を招いています。そのようなケースの機序解明に努めるのも私たちの大切な仕事です。死因を精緻に解明するための設備として、LC-MS(液体クロマトグラフィー質量分析器)とGC-MS(ガスクロマトグラフィー質量分析器)など先端的な設備を用意しているのも、本学の特徴です。これから多死社会を迎える日本では、死因不明のご遺体も増えてくるでしょう。その死因を解明し、ご家族にお伝えするのも「ご遺体の主治医」として大切な仕事です。その意味で、法医学者のなり手を増やすのもこれからの重要課題と考えています。― 最後に先生ご自身の座右の銘とメッセージをお願いします。 座右の銘は「人間万事塞翁が馬」です。中国・前漢時代の哲学書『淮南子』に記された言葉の意味を、私は「平常心を大切にせよ」と解釈しています。ご遺体と向き合うときに、まず求められるのが平常心です。裁判などでは、ときに感情をかき乱すような言葉を投げかけられる場合もあります。そんなときにも、この言葉を自分にいい聞かせるのです。なにか悪い出来事があったとしても、次にはきっと良い出来事と巡り合える。それが人生です。何より数多くのご遺体と向き合っていると、自分が生かされている恵みを強く感じずにはいられません。いまこの瞬間、生きて存在できているだけで、どれだけ恵まれているのかと考えてみてください。もちろん辛いめに遭ったり、苦しむときもあるでしょう。そんなときには無理する必要はありません。次はきっと良いことが起きる。そう思って、とにかくいま生きている自分を大切にしてください。Profile佐藤 貴子 Takako Sato 【略歴】1996年 大阪市立大学医学部医学科卒業1996年 大阪大学医学部付属病院 研修医(神経内科)1997年 関西労災病院神経内科 研修医 2002年 大阪医科大学非常勤医師(病態検査学教室)2005年 市立堺病院神経内科 医長2008年 大阪医科大学予防・社会医学講座法医学教室 助教2012年 大阪医科大学予防・社会医学講座法医学教室 講師2015年 大阪医科大学予防・社会医学講座法医学教室 准教授2018年 独デュッセルドルフ大学法医学研究所留学2020年 大阪医科大学予防・社会医学講座法医学教室 教授2021年 大阪医科薬科大学予防・社会医学講座法医学教室 教授(大学名変更)【所属学会・資格】日本法医学会法医認定医・指導医・評議員・理事(近畿地区)日本法医病理学会理事日本神経学会専門医日本内科学会認定医司法解剖鑑定医(大阪府警察本部)日本医師会死体検案相談事業相談協力医    などOsaka Medical and Pharmaceutical University 14

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